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作:カルロ・ゴッツィ(伊)
上演時期:2001年4-5月
於:北九州市門司区 門司港ホテル海側テラス
執筆担当:藤澤友
執筆時期:2016年10月
<特定の“スタイル”を持たない劇団>
なにしろその直前が利賀演出家コンクールで受賞した「紙風船」(岸田國士)である。観客はもちろん、団員内でもそのギャップの激しさに動揺があった。
その直前までが安倍公房、別役実。そして岸田國士、ときて、鈴木忠志の賞をとったなら、“そういうの”がうずめのカラーだと感じるし、大方の人はその次回作をある程度想像しようというものだ。それが、イタリアの古典仮面喜劇、大仰な身振りとあからさまな滑稽で笑いを誘うベタベタのコメディーだとは思いもよらない。
カルロ・ゴッツィってダレだよ、プロレスの神様かよ。と、私も思った。
そしてこれ以降、渋好み、ファミリー向け、ギリシア悲劇、唐十郎、メルヘン、緊縛絵師、三島由紀夫、ブラックユーモア、全裸、夫婦コメディ、と、思いついたものはとにかくなんでもやるというようなラインナップが展開されていくことになる。
「紙風船」の直後に入団した私にも、やはり戸惑いはあった。
しかし今では、ゲスナーの演劇観(芸術観)の視界が広くて、区切る意味を持たないのだろうと理解している。喩えると、プロ野球も草野球も、大相撲もゴルフもホッケーもジョギングも、全部「スポーツ」で、彼はその「スポーツ」を背負っているのだ。大切なのは、ど真ん中にある本質だけなのだ。これはついていく人間にとってはいい勉強になったが、劇団といういわばカルトに、固定ファンがつきにくい要因として明らかでもある。前回のが自分好みだったから、次も……と思って見に行ったら、やっていることが全然違うのだ。
いや、本当は違わない。
俳優の人間性をギリギリまで引き出し、演劇の力を信頼しきって、古今の表現につながりを見出し、あくまでも演劇らしい演劇を追求すること。
この点でゲスナー演出は微塵もブレない。
だからこそ、どんなスタイルのどんな作品でも選択できるのだ。
うずめ劇場にブランドカラーがあるとすればそれに尽きる。いわゆるカラーになりにくいのが悩みどころだ。
<地域に支えられた集団>
二つのことを振り返ってみて、つくづく、「いちげんさん」には向かないことをやっていると感じる。これは、見る方も、やる方も、だ。
稽古しながらセリフが変わっていく、いや、セリフを変えていくために稽古する、なんて特殊なあり方を、誰もが受け入れられるわけはない。だいたい、ゲスナーの言いたいことを、なるほど、と飲み込み咀嚼するのにも、ちょっとばかり壁を踏み越えないと難しい。
やっていることは毎回違う(ように見える)。
ペーター・ゲスナーが、いち演出家としてではなく、うずめ劇場としてあることの意味が、それだったのだと思う。思想を共有し、共感し、許しあえる仲間、醸成された信頼関係が、そこには必要だった。そして、なんだかんだ言っても「ペーターが好きだから」見に来てくれる地元の皆さんの支えが、お互いを育てた。
あるとき、私たちが敢行したツアー公演をNHK芸術劇場が取材し、番組にしたことがある。コメンテーターの衛紀生さんが、「こういう(無茶な)旅をすると、人間がさらけ出されて、集団が試されるんですよ」とコメントしてくださったのは印象的だった。まさに、お互いを試しあうかのような集団として、ゲスナーとその周辺は互いを削り合いながら信頼関係を育て、演劇・舞台を作ってきた。