うずめアーカイブ その2「赤目」

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作/斎藤憐
演出/ペーター・ゲスナー
上演時期:1996年10月
上演場所:仲宿八幡宮境内特設会場(北九州市)
執筆担当:松尾容子
執筆時期:2016年10月

旗揚公演の「わが友ヒットラー」が終わったときに、役者やスタッフで参加した何人かは、またペーターの演出で芝居がしたいと思っていた。
うずめ劇場自体は、演出家と役者1名という危うい状態だったので、ヒットラーを演じた山口さん主催の演劇作業室紅生姜と共同公演という話が持ち上がり、ペーターとしても、渡りに舟だったのではないかと思う。

ペーターはこのとき、テント芝居をやりたがっていた。
1993年に来日してから3年間ほど、各地で日本の芝居を見て回った時期があり、そのときに東京の劇団黒テントを訪ねて、「同時代演劇」という演劇雑誌を誰かからもらい(後に桐谷夏子さんということが判明)、その本で日本のアングラ演劇を勉強した。彼は当時、まだライプティヒ大学の社会人学生で、修士論文のテーマは「日本のアングラ演劇」。日本独自の演劇スタイルとして大いに興味を持ち、それもあって、アングラ演劇を(できればテントで)やりたかったのだろう。

しかし、当の本人を含め、誰もテント芝居の経験などなかったので、思案の結果、やはり誰も経験のない野外公演をすることになった。
会場は八幡東区にある仲宿八幡宮の境内。山口さんの幅広い交友関係から、宮司さんが協力してくれることになった。

問題は何をやるかだ。今は、劇作家協会が1999年から刊行した英訳戯曲集「現代日本の劇作」全10巻が出ているが、当時は確か、劇作家協会から英訳されている現代日本の戯曲リストというのをもらって、その中から選んだ。

そして斎藤憐の戯曲「赤目」に決まった。
この「赤目」という芝居は大変だったけれど、とても楽しかった。

舞台は昭和。テレビが台頭してくる頃であるが、白土三平の「赤目」という漫画が劇中劇として展開する。その中で、忍者のアクションシーンもあり、神社の神木2本にロープをわたし、そのロープをエイヤ、と伝って渡ったりした。(これは役者で参加してくれた消防団員の指導力が大きかった。)また、リヤカーを使った小舞台で舞台転換したり、百姓一揆のシーンでは、燃えさかるたいまつを持って乱闘したり。神社の休憩時間には、役者が百姓の格好で売り子になって、飲み物や食べ物を客席で売り歩く。時代の変換期を描き、失われゆくものへの切なさに満ちた芝居の内容と、神社の借景があいまって、野外の醍醐味満載の芝居となった。

一方で、客席作り、照明、音響、と難題が多かったが、その後長く、うずめ劇場の芝居を支えてくれたペーターの盟友たちとの出会いもあった。客席作りを安く引き受けてくれた古村工務店の古村義明さん。悪条件で照明を担当してくれた旭商会。また、衣装は山口恭子さんの知り合いが、蔵の中の古い着物を大量に提供してくれ、見事な百姓たちを現出させた。

また、この芝居を作りながら、ペーターのバックボーンも少しずつ見えてきた。
旧東ドイツの出身で、ベルリンの壁がこわれる瞬間に立ち会ったこと。それがきっかけで、外の世界をみたいと思い、奥さんに九州工業大学のドイツ語講師の話があり、3才の娘を連れて、家族3人で、知り合いもいない日本に来たこと。日本に来れば、劇場で働く口があると思ったが、ドイツとはえらく演劇事情が違い、演劇の仕事がまったくなく、絶望したこと、などなど。

最後におまけで、なんと、本番を斎藤憐さんが見に来てくれ、ゲスナーは日本で5本の指にはいる演出家だ、と言ってくれたのは、驚きとともに、大変うれしかった。