うずめアーカイブ その1「わが友ヒットラー」

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作/三島由紀夫
演出/ペーター・ゲスナー
上演時期:1996年4月
上演場所:ムーブ(北九州市)
執筆担当;松尾容子
執筆時期;2016年10月

ペーターが、戸畑(福岡県北九州市戸畑区)にやって来て、3年ほど芝居ができなかった苦悩を乗り越えて、うずめ劇場として旗揚げした記念すべき第一作。
三島由紀夫の華麗なる日本語のせりふが連なる戯曲で、しかもドイツ人としては、避けて通れないであろうヒットラーを題材とした芝居。日本を代表する文学作家三島由紀夫の、それも海外ではタブー視されているヒットラーを扱った戯曲である。

まずは役者探し。北九州市内の劇団の芝居をあちこち見て回り、スカウトして回った。
ヒットラーに、演劇作業室の山口恭子。
ヒットラーを操り、ひと儲け企む鉄鋼会社の社長クルップに、当時、福岡市内の劇団に所属していた江口靖。
ヒットラーに裏切られ粛清される、ヒトラーの盟友突撃隊長のレームに、坪原ゆかり。
そして同じく突撃隊長のシュトラッサーに、ペーター自身。という配役。

ヒットラーと豪腕たくましいレームに、女性を配するという思い切った布陣。特にレーム役の坪原は、当時20歳そこそこの可愛い女の子で、劇団員募集のビラを見て応募し、初のうずめ劇場劇団員となった。
北九州に限らず、地方都市にはよくみられるように、男優が少ないという事情が大きい。そこを逆手に取った配役といえる。

私はこのときに、初めてうずめ劇場に関わることになる。
ちょうど、ヒットラー役の山口恭子さん主催の劇団に入団希望したときで、その打ち合わせの席にペーターが現れ、延々と三島とこの戯曲の話を聞かされた。突然だったこともあり、内容はあまりよく覚えていないが、ジャパンタイムズの金閣寺の写真が載った記事を目の前で大開きされ、三島と金閣寺との関わりについての話がひとしきりあり、また、その年はオウムの麻原が逮捕された年だったので、「日本人はテロは関係ないと思っているが、オウムのテロがあるじゃないか」と、今の日本(1996年時点)の不安定な社会状況の中で、この芝居をやるべきだ、というような話だったと思う。平和ボケしていた私には、ずいぶん唐突な話に思えたが、彼の勢いに押され、スタッフとして芝居に関わることになったのである。

何回か舞台に立ったことはあるが、スタッフの仕事などろくに知らない状態だったので、右往左往しながらの裏方だった。制作は「小さな地球の会」というボランティアグループが行っていた。外国人に日本語を教えたりしている主婦が中心のグループで、芝居の制作など初めてだったが、ペーターの熱意に押されて、おっかなびっくりやっているという感じだった。

舞台美術は、福岡の美術家・村上勝氏が担当。床中央には、アーチェリーの的のようなものが敷かれ、舞台上の赤と黒の大きなボックスから役者が出たり入ったりする、舞台の真ん中には、金色の電信柱のような棒が、斜めにかけられていて、レームが悩みながらよじ登ったりする。

大掛かりなマジックショーを連想させる、抽象的でかつ重厚さのあるものになった。登場人物4人の駆け引きを、演出でこんなふうに見せることができるのかと驚いた。レームが殺される場面では、切腹を思わせる演出。地元のロックバンドが大音量の演奏で盛り上げ、レームの覚悟の死を見せてくれた。地元の詩吟クラブの皆さんにも出演いただき、20人くらいの高齢の男女が喪服に身を包んで舞台上を移動しながら朗唱するシーンは、印象的だった。話題性もあったのか、1000人近くの観客を集めて、旗揚げ公演としては、上々のスタートを切れたのではないかと思う。

当時、「等身大の芝居」のブームで、歴史的人物を題材とする文芸的な芝居をやるところは少なかったので、異色の舞台だった。しかも、抽象的な美術とのコラボで、4人の登場人物の世界観を立ち上げるという、あまり見たことのない演出の舞台を北九州で作ってしまえたことに、驚いた。こんなことは、東京の大きな劇団でないとやれないものだと思い込んでいたが、演出家の方向性が明確であれば、やれるのだということを目の当たりにして、地方での演劇活動に可能性を見出した思いだった。

この舞台をきっかけに、ペーター・ゲスナーという演出家がこれから何をやるのか見てみたい、という思いにかられ、うずめ劇場に深く関わることになった。